神域山水

 本シリーズ「神域山水」は日本人の自然観、宗教観を表す代表的な詩とされる西行法師の歌「なにごとの おはしますかはしらねども かたじけなさに なみだこぼるる」に着想を得て制作を行った作品です。この歌は西行法師が伊勢神宮を詣でた際になにもないがそこに佇む「気配」や「存在」いわば神様の存在に触れ、溢れ出る感情に涙を流したことを歌ったものです。この「気配」や「存在」は目には見えないが確かに存在するものとして古くから扱われ、多くの熟語やことわざにも使われる言葉です。これは芸術作品に対しても扱われ、その作品に「気」が宿る、漂う、感じるなど作品の批評の言葉として用いられてきました。その中でも中国南北朝時代の画家、謝赫が説いた画の六法における「気韻生動」は東洋絵画における絵画論の礎になった言葉です。この画の六法に書かれていることには気韻生動は、作者みずから体験した妙理を画面に定着し表現したものを通じて、鑑賞者はそれを再び体験することができたかといったことと定義しています。このように東洋絵画ではいかにして作品に気を込めるかが重要な要素です。しかし、かつての信仰心を持った人々の様な身体感覚を体現することは信仰心の薄れた現代に生きる我々には難しいでしょう。そこで現代の我々がある種の身体感覚を補強できる客観的なものとしてデータを用い、データから抜け落ちてしまった主観性を筆で描くことでかつての人々の感覚に近づけるのではないかと考えました。手法としては神社の気象データ(温度、湿度、気圧、等々)を入域-参拝-出域までの詣でる一連の行為と共に計測し、それをエクセルでグラフに変換した図をデータ毎に山水図を描く要領で描きました。この手法により山水に見立て表現した作品が「神域山水」です。これはその日、その時、その天候でしか形成することのできない神域の空気を綴じ込めた図像であり、可視な存在の表象かもしれません。