statement

かつて人間は、風の湿り気で雨を予知し、闇の気配で獣を察知する、精度の高い感覚器だった。生存がそれを要求したからである。予報と照明と地図がその仕事を肩代わりした現在も、この感覚器は壊れていない。較正が狂い、呼び出されなくなっただけだ。私は、この休眠した知覚を再び較正するための装置をつくっている。膠を起点に、顔料とメディウムの物性を絵画に限らず多角的に探求するなかで、確信したことがある。物質の性質は揺るがない。だからこそ、その確かな差異——光と影、透明と不透明、硬質と柔質——が衝突する境界面にだけ、物質ではないものが立ち上がる。感覚、記憶、時間。作品はその出現の記録である。

東洋には、あらゆる物質をそれぞれ固有の個性を持つ存在として遇し、その質感が調和するよう対等に配置する感受性の伝統がある。私はこれを信仰としてではなく、物質への注意の払い方の様式として引き受ける。目に見えない何かがいるのかどうか、私は知らない。しかし、注視すれば身体が応答することは知っている。人気のない早朝の境内で気圧がわずかに動くとき、暗闇のなかで顔料が光を放つとき——信じていなくても、身体は反応する。

世界は常に、意味になる手前の信号を発している。気象のゆらぎ、物体が放つ熱、塗膜の内部で静かに進行する崩壊の予兆。それらは人間の裸の知覚の解像度の外側にあり、計測技術の網目からもこぼれ落ちる。私は計測データと手わざの二重書きによってこの微弱な信号を捕獲し、痕跡——traceとして画面に定着させる。凍結された痕跡は、条件を満たした鑑賞者の身体のなかで、ふたたび兆しとして起動する。

 

気象計を携えて歩くことも、熱画像を撮ることも、完成した画面に等間隔の刃を入れることも、立ち止まり、注意を払い、記録するという同じ身振りである。かつて人はこの身振りを参拝と呼んだ。いま私はそれを観測と呼ぶ。名前が変わっても、身体は同じ動作を覚えている。